| 「キッス！」 いつもするように、空へ向かって、信頼するエンペラークロウの名前を呼んだ。いらえはない。 普段なら、すぐに独特の鳴き声を上げてココのいる場所へ向かって滑空してくるのだが。木々の間を通り抜ける風が、かすかに音を立てるのを漠然と聞きながら、ココは沈黙した。 （狩りでもしているのだろうか） もちろんココも餌をやってはいるが、あの大きな体をそれだけで維持するのは難しい。いまでも成長を続ける最後の個体は、天敵のいない大空を駆け回ることがあった。 その姿はまさに皇帝の名を冠するにふさわしい勇壮さでココを楽しませるのだ。 薄暗い空を見上げる。ゆっくりと息を吐いた。かすかな不安がココの体に汗をかかせた。 （おかしな卦は見えなかった） 深いきずなで結ばれていたとしても、いつか来る巣立ちの日を最も恐れているのは自分自身だ。暗闇も昼間と変わらぬ明るさで見える目が当てもなく空を探し続け、もう一度、その名を呼んだ。 「――キッス！」 永遠ともつかぬ沈黙が過ぎた。星々の揺らめきがまるで自分を嘲笑っているみたいに見える。ココは目を閉じて、長いため息をついた。 その時である。 独特の鳴き声が遠い場所から響いてきて、なじみのある羽音がゆっくりとこちらを目指して羽ばたいてきているのがココの耳に届いた。 片手をあげて、自分のいる場所を示すと、突風が吹きつけてくる。甲高いような濁ったような声で三度鳴いたあとに、キッスはココのすぐそばに舞い降りた。 もの言わず、その暖かい首を撫でた。不安はおくびにも出さない。この賢しい鳥の皇帝は、ココの意思をよく汲む。人語を解し、ココの文字通り手足となって働いてくれているのだ。万が一でもその巣立ちを阻むような言動は、たとえ冗談であってもしないように心がけている。 「狩りをしていたのかい？――邪魔をしたのなら、ごめんね。そろそろ家に帰ろう。お土産もあるんだ。明日はお店を休みにしたから、もし風が良ければ……行きたいところがあって」 答えるようにキッスが短く鳴いた。ココはうなずいて、優しくくちばしをかいてやる。つぶらな瞳がきらきらと輝きに満ち、それは好奇心でいっぱいになった人間の子供とよく似ていた。 伏せた背中に身軽に飛び乗り定位置につくと、何度か小さく羽ばたいた。それは飛び上る前の合図で、ココはしっかりと手荷物を押さえて飛行の時を待った。 ココの家は空さえ飛べば崖からすぐ近くにある。上空には見えない乱気流も流れていて、キッスほどの翼を持たないと、危うく流されてしまうこともあった。 キッスは初めに高く舞い上がり、ゆっくりと崖の上の家を目指す。ココの眼には流れる風の道筋が鮮やかに見えていて、またキッスがそのなかを悠々と通り過ぎていくのが分かる。 （静かな僕の石の家） 小さな石造りの家をココは気に入っている。 素材や場所や、あらゆる要素を自分の思い通りに作り上げたのだ。ココがそんな我がままを貫いたのはそれが初めてだったので、思い入れはひとしおだ。 （――？） あらゆるものを見通すココの眼にまず飛び込んできたものがあった。家の外には猫の額ほどの庭があって、もちろん柵もない断崖絶壁なのでボール遊びなどは論外だが、キッスがこの先さらに大きくなっても十分余裕がある程度の広さがある。 そこに、飛び跳ねるものが見えたのだ。 ピンク色の、小さな塊。 （あれは） 結論を出さないうちに、甲高い一声をあげてキッスが地に降りた。それを待っていたようにピンクの塊が跳ねてくる。 「――ユン？」 これは小松が飼っているウォールペンギンの雛ではなかったか。珍しい種類の鳥なので、他に飼っているものがいるとは考えられない。 その名のごとく、ユン！とかわいらしくさえずってキッスの翼の下に潜り込んでいくのをただ眺めながら、ココはゆっくりと振り返った。 （静かな僕の石の家） 夜でも昼間のように見える目に、電燈はいらない。ココは息をのんだ。 家の窓から明るい光が見える。来訪者用に申し訳程度につけている屋内灯が、闇に沈んでいくこの場所を照らしていくようだ。 （――小松くん？） その光の中で、こまねずみのように忙しく立ち働いている人影があった。白いコック帽とピンク色のコックコートに清潔なエプロンで武装した小松が、なにやら真剣な顔をして野菜を刻んだりフライパンをかきまわしたりしているのだ。 ぼんやりとそれを見ていると、キッスの言い訳めいた鳴き声が響いた。 ココの脇にぴったりと張り付いたままどこうとはしない。ユンはそれを知らぬげにキッスの翼の下で遊んでいる。 「怒ってないよ、キッス」 そう言ってココはキッスの喉をなでた。 「よく小松くんを覚えていてくれたね。ありがとう、キッスが連れてきてくれたの？」 そうだ、とも違うとも取れる動作でくちばしをかみ合わせる。ユンがのそのそと翼の下から這い出てきて、ココの足もとにすり寄った。 「お前も、遊びに来てくれたのかい？」 そっと足もとの小さな塊を抱き上げた。暖かな雛の体から優しい鼓動が伝わってくる。 もう一度、家のほうを向くと今度はスープをかき混ぜている小松が見えた。 （……どうして） ぐっと訳の分らぬ衝動が胸に湧き上がってくるのをココは必死で抑えた。 いままで、この生活を苦に思ったことはない。一人はいい。これは本当にそうだった。だれかに監視されたり、親切めかして利用されたりすることのない、静かな暮らしはココが長年求めてやまない憧れだったからだ。 けれど、この訳の分からない想いは何だというのか。ココはぐっとくちびるを噛んだ。 |