(やっぱり急だったかなあ)
受話器を置いて、小松はため息をついた。
しんとした部屋には空調の静かな音と、ウォールペンギンのユンの寝息しか聞こえてこない。
じっとしているのもなんだったので、お茶を入れにキッチンへ立った。
こんなに静かに一日を終えるのはいったいどれくらいぶりなのだろうと考えたが、答えが出てこない。自分の部屋のはずなのに、どこかよそよそしい白い壁が、小松を圧倒してくるようだ。
(――ていうか、最近は特に寝に帰るだけの部屋だったものなあ)
料理人という激務に加え、トリコと知り合ってからというもの、毎日が24時間では足りない。ハントに次ぐハント、それを補うための激務。時折、後継の指導やら市場調査という名の飲み会が入り込んでくる。毎日が怒涛のようなめまぐるしさで行き過ぎていくので、料理に使う食材で今がいつなのか、暑いのか寒いのかを把握しているほどで、部屋に帰ってホテルに出勤する間のことなどはほとんど記憶にない。
ぬるく入れたお茶をマグカップになみなみとたたえて、リビングに置いてある小さなソファに寝ているユンの隣に座り込んだ。そうでもしないと、なんだかこの部屋の寒々しさに取り込まれてしまいそうで怖い。
(明日どうしよう)
こういった日常に慣れてしまうと、ぽっかり空いた休日を持て余してしまう。トリコとのハントも、修行やらなにやらでしばらく先になりそうな気配があるし、ホテルのほうもちょうど閑散期に入るところだ。もちろん、しばらくすればまたもとのあわただしい日々が戻ってくるだろうが、目下の試練は明日の休日を乗り切るということにつきる。
さんざん考えてみたが、あまりいい案は浮かんでは来ず、とりあえずぱっと思い立った相手に電話をかけたのだ。
もちろんココを誘おう、と思ったのは気まぐれではない。
縁あって知り合った美食屋の友人は占いを能くする。そのおかげで幾度かの困難を乗り越えたこともあるし、さまざまの助言を与えてもらったこともあった。最初はぎこちなくあったが、いまでは程よい距離を保ったよい友人としてお付き合いさせてもらっているか、と小松自身は信じている。
(新しい料理、アドバイス欲しかったしなあ――なんだかんだ言って、ココさんそういうのすごい上手だから)
いろいろ桁外れの美食四天王のなかで最も良識派の一人であるココの意見は千金に値する。指摘は驚くほど的確で、毒はあるが嘘はなく、それを聞くために本当に大金を払うものが大勢いることもその証明になった。
人とたくさん接しているためか、ニーズを読み取ることに長け、かつ女性心理にも詳しい。一度、なぜそんなに詳しいのかを尋ねたことがあった。
すると彼は
(何百人もの女の人を相手にすればおのずとわかることだよ、小松くん)
と往年の名探偵のようなことをさらりと告げるのだ。本当かどうかは分からない。人嫌いであることを標榜し、たとえば町でたくさんの女性に囲まれたらほうほうのていで逃げ出す姿をしか見たことはないが、確かにココは男の小松から見ても見惚れるほどの美貌である。何百人というのはないにしても、年相応の男性としての経験は積んでいるのであろう。
(――ココさんきれいだもんなあ)
男性に対してきれいというほめ言葉もどうかと思うが、その言葉が実によく似合う顔をしていると思う。端正な顔、とでもいうのだろうか。それこそ小松の両手でもおおってしまえるくらいの小さな輪郭の中に、整ったパーツがきれいに収まっている。
涼やかな目元に浮かぶうっとりとしたほほ笑み。それを向けられたら、誰だって平然としてはいられない。普段冷静でクールなだけにギャップが激しく、小松だって最初にそれを見たときにはちょっと釘付けになったほどだ。
けれど、とひそやかに氷のように冷たいものが小松の心に滑り込んできた。
(誰にでもあんなに優しいとかそれは反則だし――そりゃあ、女の人もほおっては置かないよなあ)
知る限りでは、ココが他人に優しくしている姿をみることはあまりない。しかし、トリコや小松に対する優しさと献身は身にしみるほどだ。あれをだれか知らない女の人に向けているのだとしたら、いったいそれはその人にどれだけの幸せをもたらすのだろう。
ちりちりと首筋が総毛立つようなおかしな感覚が小松を襲った。
(僕の料理食べてくれる時とか、わりとにこやかだし……あんな顔をされちゃ、料理人冥利につきるよね)
マグカップの表面に映る残念な顔は見ないことにする。料理の腕は顔では決まらないんだし、そういうことではないのだ。小松は無理やり自分を励まして、傍らのユンをそっと抱きしめた。
(ダメだ。ココさんに会いたくなってきた――別に会えなくても、料理を作っておいてあとで感想だけ聞いてもいいし)
小松は名案を思いついた時によくするように、ぱっと顔を輝かせた。
(そうだ、会いに行こう。ワールドキッチンへ寄って、ちょっとした旅行みたいにして)
聡い友人に気付かれないように、あくまで旅行の際に偶然立ち寄ったふりをして。
(キッスが僕のこと覚えてくれていたらいいんだけど)
家までの道は、なんとなく覚えている。
思い立ったが吉日。そう胸の内でつぶやくと、小松は先ほどまでの静けさはどこへやら、明日の準備をするために勢いよく立ちあがった。













ページごとに視線変えるの好きなんです。