「小松くん――小松くん」
名前を呼ばれるたびに、ゆっさゆっさと体が揺れる。
いや、今すごく気持ちいいんでもうちょっとこのまま――体をねじって僕を起こそうとする手から逃れた。優しく僕を包む温かい固まりの中に、心地よい場所を探す。
(あったかくて、いい気持ち)
ほおずりすると思わぬ弾力が僕に答えた。
「こっ小松くん!」
切羽詰まった声とともに僕がつかむ場所がぶるぶると震えだし、拒絶するようにぎゅっと固くなる。とろりとした気分のまま、さみしさが募ってさらに頬ずりを繰り返すと、今度は強い力で肩を掴まれた。
「こ――いい加減に起きるんだ、小松くん。……ひっ、品がないよ」
(そんなに怒らなくてもいいじゃないですか。ココさんはいつも――え、ココさん?)
ぬくぬくとまどろみにおぼれていた僕に、それは冷水を浴びせたほどの効果があった。
はっと目をあけると、タイツに包まれた熱い胸板が僕に肉薄していた。訳が分からず、見上げるとそこにあったのは呆れたようなココさんの顔。どうやら、あんなシリアスな状況から僕は図々しくも再び寝入ってしまっていたらしい。しかも、何故かは分からないがいま僕はココさんの腰にすがりついている。
「あ、あれ」
「ゆっくりできたようでなによりだね。けどまあ、僕は君の抱き枕ではないから、そろそろ離してくれてもかまわないよ」
「ああっ、すいません」
慌てて飛び起きて、ココさんから離れた。
眠気はココさんの顔を見た瞬間に消え失せ、ぼんやりした頭に活が入った。
「おかえりなさい、今日は一日お疲れさまでした」
ようやくそれだけを言って、僕は頭を下げた。寝起きにココさんの顔をみるなんて反則だ。あまつさえ腰にすがりついて、しかも僕、どこに頬ずりしてたんだろう。これ以上考えるとまずい答えをはじき出してしまいそうになって、ぶるぶると頭を振った。
「……ただいま」
ココさんは何とも言えない顔をして言葉少なに答えた。
「今日のハント、どうでした?僕、ごちそう作ってお二人の帰りをお待ちしてたんです」
「……」
「おなかすかせてるんじゃないかなあと思って。ココさんの家の食糧庫見たら、テンションギガギガですよ。あ、ちゃんと古いのから使うようにしましたし、一応、多少は補充もしたんですよ」
「……」
一瞬口をあけて、ココさんは気まずそうに僕の顔をまじまじと見た。
「ごめん、小松くん。僕も死守できるだけがんばったんだけど、トリコの食欲のほうがすごくて」
ココさんはいったん言葉を切った。
「三分の一くらいしか残らなかったよ。ごめんね」
本当に申し訳なさそうにココさんは言って、テーブルの置いてあるほうに頭をめぐらせた。そこに並べておいたはずの料理が確かにない。
「なんだ、そんなこと、お二人のために作ったんですから謝られることなんかないですよ。でも、まだ完成してない皿もあったから申し訳ないことしたのはこちらです。ちゃんと起きて待っていればよかった」
僕はほっとして言った。なんだかもっとスゴイことを言われるのかと思ったから、拍子抜けだ。
「で、トリコさんはどこか行かれたんですか?」
「あいつは、満足したら僕のベッドに寝に行ったよ。まったく、いつもいつもホテルじゃないって言ってあるのにね」
僕とココさんは目を見かわしたあと、どちらともなくふき出した。
「君が起きるまで待っていようって伝えたけど、小松は俺に作った飯を食われるのもコンビとしての仕事の一つだとか何とか言って。ほんとうに、トリコは四天王一の食いしん坊に間違いないな」
「あ、じゃあココさんはまだ食事をされていないんじゃないですか?」
「うん、お店じゃないんだから作ってくれた人を差し置いて食べるなんて品のないことできるわけないじゃないか」
「じゃ、じゃあすぐに!すぐに用意します。待っててください」
僕はその辺にかけてあったエプロンを掴んだ。キッチンに飛び込んで残っている料理を確かめる。すぐに出せる分だけをいくつか選んで、冷めたものを温めなおすために火をつけた。
「僕も手伝うよ」
「ああっ、ココさんは待っててくださいよ。ハントでお疲れでしょうし、僕はその分いままで休ませていただきましたし」
「うん。顔色が良くなっているみたいで安心した」
振り返ると、キッチンの入口にココさんが寄り掛かって僕をみている。腕組みをして、まるで雑誌のモデルか何かのようだ。普通の人ならキザだなあと笑いもするところなのだろうが、さすがココさんというべきか、それだけでずいぶんと絵になった。
「ずいぶん休ませていただきましたから――あ、勝手に毛布使っちゃいました。すいません。でも、あれとってもいいにおいで、なにか特別な洗剤とかあるのかなって」
話ながら、手だけは動かして出来上がった料理を並べていく。ついでに何品かを残った食材で素早く支度した。
「あれは僕の調合した薬草で、リラックス効果と疲労回復に安眠効果なんかを重視してるんだよ。気に入ったのなら少し持って帰るといい」
「もしかして、ココさん……何か見えたんですか?」
火を調節して、僕はココさんのほうに向き直った。スープが完全に温まるのは時間がかかるから、その間にお湯も沸かしておく。ココさんは言いにくそうに口ごもった。
「近いうちに、君が大きな事故に巻き込まれる卦が見えてね。――僕としては君をハントから外すのは忍びなかったけど、予防できることはしたほうがいいと思ったんだ。うっかり居眠りなんかで大切な料理人を失うわけにはいかないし――君は偉大な料理人でもあるし、僕の友人だから」
僕は息をのんだ。集中している厨房で居眠りなんかはしないと胸を張って誓える。けど、通勤途中でうつらうつらしてしまうのは、最近の常だ。ひどい時にはどうやって帰りつけたのか記憶がない日さえあったほどだ。
「す、すいません。ココさんにそんな気を使っていただくなんて、僕は…僕は…」
とっさに僕はココさんに駆け寄って、そのたくましい体に飛びついた。筋肉の塊のようなトリコさんとは違う、しなやかで薄いからだ。僕は夢中でその胸板にすがりついた。
(やっぱり、ココさんは優しいひとだ!)
「コッ、小松くん!」
「僕のことをそんなに心配してくれるなんて、やっぱりココさんはいい人だ」
ふっと、ココさんが大きく息をついて、僕の体を持ち上げた。
「いい人なんかじゃあないよ。君を置いて行くことにして、さぞや恨まれてるんじゃないかって――怖かった。それだけが気になって、ハントにもほんとうは身が入らなかったんだ。君はトリコと行くハントをいつも楽しみにしているものね。この埋め合わせは今度、トリコにしてもらうといいよ」
「ココさん」
「でも安心して」
ココさんは僕の顔を近くからじっと見なおして、やがて小さく笑んだ。
「その卦は消えたみたいだから、大丈夫だよ。もちろん、これに懲りて体調管理はしっかりしてもらわないと困るけどね――って、どうしたの小松くん!?」
ぎゅっとココさんの手に力が入った。僕はこぼれ落ちる涙を止める手段を持たない。う、う、と自分の喉から奇妙なうめき声が漏れるのが分かる。
(こんなやさしい人、見たことない)
笑顔を見せて安心させようとしたけれど、それはやっぱりできなかった。代わりに僕は腕を伸ばしてココさんの首にしがみついて、駄々っ子のように泣き声を上げた。僕よりも暖かいココさんの体。
「ごめんね、やっぱりハントに行きたかったんだね。僕が悪かったよ。――だからもう泣かないで」
ココさんの優しい、そして少しさびしそうな声が僕の耳に届いた。そうじゃない、と僕は言いたかった。が、伝わらない気がしてただココさんをつかんでいる手に力を込めた。ココさんは諦めたみたいに、ふっともう一度息をついた後、力を込めて僕の体を抱きしめた。
泣きわめく僕と、それをなだめるみたいに抱きしめるココさんの姿を、知らない人が見たら、さぞや滑稽に思うだろう。それとも、熱烈な恋人同士がする抱擁にでも見えるだろうか。
やがてすべてを夜に変える優しい闇の帳が僕たちを覆い隠し、トリコさんが料理のにおいにつられて降りてくるまでの間のごくわずか、静かに時を共有した。













あの崖の上の家がほんとうに好きでねえ。という気持ちで書きました。