(――いいにおい)
すん、とハッカと薬草のかすかなにおい。まどろみと覚醒の間、薄皮一枚はさんだ時の中でゆっくりと目を開くと、見知らぬ石の壁が僕を出迎える。自分を包むやわらかな毛布を抱え込んで、すんと鼻を鳴らした。
いいにおいの元はこれだ。子供のように毛布をふがふが堪能して、満ち足りたところで覚醒した。
(ココさんの家だ)
ぬくぬくと温まった毛布から顔だけ出して、僕はあたりを見回した。窓から見える日はもう高く上がっている。名残は尽きないが、毛布のにおいをもう一度吸い込んでそこからはい出した。大きく伸びをして、頭を振った。汚泥のようにたまっていた疲れが、先ほどまでの眠りですっかり消え去ったみたいに頭が軽い。
ちょっとうれしくなって僕は飛び上った。肩も足も、魔法にでもかかったようにはずみ、きしむところも感じられない。
すっかりご機嫌になって、そしてはっと自分のやるべきことを思い出した。といっても、二人が返ってくるまでにご飯の用意をするという、いつもと変わらない役目だ。
のんびりしてはいられない。よーし、と腕まくりをして運び入れた荷物に駆け寄った。
食糧庫の中は、たくさんの貯蔵品が放つ独特のにおいが充満している。その中には普段使い慣れている食材も数多くあったけれど、まったく見たこともない素材や材料がそこかしこに積みあがっていた。とりあえず、古そうなものから選別していく。あらかた選び終わった後は、ずっと気になっていた調味料を目指す。
割と高い作りつけの棚の中には、それぞれの種類ごとに瓶詰めされた小さな宝石とも呼べる、貴重な香辛料が納められていた。ぱっとみて分かるのだけでも、きれいなオレンジオ、天然のつくしナモン。黒煙ペッパーや火山椒、寿司塩があった。そして――僕もよく知っているメルクの星屑が、きれいな小瓶の中で本物の金の輝きを放って奥の、ちょっと特別に据え付けできるようにしてある飾り棚の上に置かれていた。
(大切にしてくれているんだなあ)
僕は胸が熱くなった。
これはとても苦労して手に入れた調味料で、いつかココさんに少しだけおすそ分けしたことがあったのだ。いつもお世話になっているし、ココさんだって美食四天王の一人だ。モルス山脈に行くことだってあろうし、その際にサンサングラミーを捕獲することだって十分にあり得る。そう考えて、ほとんど押し付けた形だったが、ココさんは快く受け取ってくれ、そしてとても大切にしてくれているのを目の当たりにすると、やっぱりうれしい。
鼻歌交じりに持ち込んだ食材を補充していく。肉などの加工できるものはあらかたしてきたし、あとは量と献立を考えるだけだ。ハントに疲れた二人をどうやって励ますか、おいしい物を食べると回復するグルメ細胞の持ち主相手だからこそ、自分の力量を試されるようで、僕は奮起してしまう。
(やっぱり――)
(料理を作るのは楽しい)
どれだけ仕事で遅くなっても、料理雑誌を寝る前に繰ることだけはやめられないし、新しい食材が来れば寝食をわすれて取り組んでしまう。結果、自分の身を摩耗させることになっても、出来る努力をしなかったよりは後悔は少ないだろう。
(だって、これは僕の道だ)
コックコートを着込んでさらに気合を入れた。
(トリコさんには肉料理中心で、ココさんはそれよりは野菜のほうを重視して)
(お酒、なにを持ってきたっけ)
こればかりは食糧庫には置いていないので、持ち込んだ銘柄を確認する。ついでに冷蔵庫を開けてお酒が苦手なココさんのために特別に用意したミネラルウォーターを冷やす。
この家は、原始的な見かけからは想像できないくらいハイテクを駆使して作られている。貯蔵庫は太陽光発電のおかげで、一定の温度に保たれているし、冷蔵庫やクーラーなどのあらゆる文明の恩恵は受けられるようになっていた。そして、水道も雨水を貯めてそれを浄化して使うのは当たり前だとしても、生活排水なども飲めるようにできる循環装置さえ取り付けられているという。
(さすがに、それを使うのは最後の手段――にしようかと思っているんだけど)
ココさんは涼しい顔をして言っていた。やろうと思えば、もうこれから先ひと前にでることもないまま自給自足で過ごすこともできると。
過去に科学者やIGOの医療班に研究目的で追いかけまわされたり、第一級の危険生物として隔離されそうになったことがあるとトリコさんから聞いた。一部の心ない人間のしわざとはいえ、いったいどれだけのことがあったのかその闇は僕なんかがうかがい知ることはできない。
けれど、そんな過去があってもココさんは占い師として人前に立って、悩める人の道しるべになっているのだ。
(なんて――)
強くて、そして優しい人なのだろう。
僕はその話を聞いたあと、ココさんの人柄をよく知るようになるたびに、ひどく辛く、苦い思いをしたものだ。この優しく気高いひとを、いったいどうやったら研究対象として見られるのか、できることなら僕はその科学者や医療班の連中に問いただしてやりたい。
憤慨しながら大きな鍋を取り出してまず湯を沸かす。手だけは無意識に動くのだ。
コックコートにエプロンをかけ、キッチンに立つとそこは僕の戦場になる。気分は高揚し、志気が上がる。やっぱりココさんの家なのでシンクや火の元などに僕の背はちょっと足りないのだが、そこは心得たもので何度か通ううちにいつの間にか備え付けられていたスノコを引いた。
普段はぼんやりしている僕でも、この時ばかりは俊敏に動くことができる。野菜をより分け、肉を刻み魚をさばいていると、先ほどまでの陰鬱な気持ちがゆっくりとほどけていく気がした。
たとえ過去に何があったにせよ、僕はいまのココさんに出会ったのだ。それは紛れもない事実で、僕一人がうかがい知ることのできないことをうじうじと思い悩んでいたって、それはかえってココさんをひどく侮辱する行為になりはしないか、と思い当ったのだ。
(誇り高く――孤高の)
(傷を持ってなお、人に手を差し伸べられる優しさを持った美しい人)
もちろん他の四天王だってみな気高く誇りに満ち溢れているのは知っている。トリコさんの豪放磊落さに魅かれないわけはないし、だからこそ彼のコンビに僕はなったのだ。サニーさんの美に対する執着やゼブラさんの並みはずれた純粋さに僕の心はかきたてられ、彼らのフルコースを覗き見しては、
(いつか――いつかきっと)
自分だけの特別なメニューを調理することを夢想し、そのために必要な努力なら何を犠牲にしても惜しくはないと思いつめて危険なハントにも必死で食らいついているのだ。
(――けれど)
どうして僕はココさんのことをこんなに気にかけてしまうのだろう。と、ふと冷静になった自分に僕は思わず問いかけずにはいられなかった。














あの崖の上の家がほんとうに好きでねえ。という気持ちで書きました。