切り立った崖の間を、冷たい風が吹く。すがすがしい空気を胸いっぱい吸い込んで、なんどか深呼吸を繰り返せば、体から余計なものがそのたびに抜けていくような気がする。さわやかな森林とやわらかくみずみずしい香草の間を吹き抜けてきた風は、自然の芳香さえ感じさせて、僕はうっとりと眼を閉じた。
グルメフォーチューンの外れにあるこの場所は、自然にできた崖が数多く存在する。その中でもココさんの家は、切り立った断崖絶壁に囲まれながら、そのどれからも一定の距離があるほんのわずかな平地の上にあった。小さな居住部分とその脇に貯蔵やいろいろな機能のある何階かの塔だけのシンプルな住まいは、どうやって建てたかも皆目見当がつかない。しかも運ぶのだけで労力を要するだろうと素人目にも分かる堅牢な石造りだ。
(静かだな……)
ざっと吹きすさぶ風の音ばかりが遠く、僕の耳に響いてくる。朝日はまだ登り始めたばかりの穏やかさであたりを優しく照らしながら、夜の間に奪われた熱を再び供給しようとしているところだ。
今日はココさんの許可を得て、彼がトリコさんとハントへ行く間のお留守番をさせてもらっている。普段ならかじりついてでも同行しただろう。
(ちょっと体が……とほほ)
僕はため息をついた。このところ、激務が続いている。それに弱音を吐く年齢では「まだ」ないけれど、それでもきついことに変わりはない。料理長という立場は一筋縄ではいかないのだ。
(徹夜続きに、朝日は痛いよ……)
通常の業務に加え、次々に持ち込まれる新種のグルメ食材の料理法の確立、またそれをクリアした後の味の平均化。ホテルグルメの看板を傷つけることを許されない環境の毎日は、僕の神経を摩耗させていくばかりだ。
もちろんこの仕事を愛し、天職とも思っている。食材をみれば胸が熱くなり、料理法を考えるときはどんな至福にも勝る。トリコというコンビを得てからはその思いもいや増すばかりだ。
しかし――
(僕はただの人間だから)
トリコやココのようなグルメ細胞を持たない、ただの世の常の人間だからこそ、体力に限界がある。今日のハントも危険度が少なく、移動と見つけるのに手間がかかるだけだ――というのは聞かされていて、職場にもむりやり休みをねじ込んできた。


「けど、顔色が悪いよ。小松くん」
四天王のココが僕を見て沈痛に言った。
待ち合わせた時間はまさに深夜。僕には伸ばした手の先さえ見えない状況だったけれど、きっと彼には昼間のように見えていただろう。僕には彼の顔がわからなかったけれど、どんな表情をしていたのか気になった。
「今日のハント、行くのはお勧めしないね」
「それって、占いの結果ですか?」
「――それで君が納得するならそう言ってもいいよ」
ふう、とココさんは長いため息をついて僕の頭をなでた。トリコさんはそこにいなかった。切符を買いに行ってたか何かだったと思う。
結局、僕のハント同行は取りやめになって、近かったココさんの家で待機となった。


(反発のほうが大きかったけれど、いまとなってはココさんの判断が正しかったのかも)
ゆるゆると睡魔が足元から襲ってくる。ついて行っていれば、こんなもの吹き飛んでいたけれど、なくしてしまうわけにはいかないからきっと明日からの仕事に支障があるに決まっているのだ。
朝日に別れを告げて、がくがくする足をゆっくりと動かした。キッスに運んでもらった荷物を邸内へ運び入れる。もちろん、というのもばかばかしいが鍵はないから侵入し放題だ。
この場所へ来るには一筋縄ではいかない。僕の住むグルメタウンから電車で、そして徒歩で。最後は空を飛んで。
(侵入するまで、が難しいんだ)
最後の一つを運びこんで、扉を閉めた。荷物で扉が空かないように押さえをして、部屋のわずかな暖かさにほっとする。暖炉に火を入れるほどの季節ではないが、やはり朝は空気が冷たい。
部屋の中を見回して、窓の下のベンチチェストの上に目当ての物を発見した。温かそうな緑色の毛布が畳んでおいてある。
(お借りしますね、ココさん)
広げると、通常よりもはるかに大きいサイズで僕の体が折りたたんだままですっぽり収まった。余った部分は折りたたんでまくら代わりにする。部屋のものは何でも使っていいといわれていたが、さすがにベットを占領するのは気がひけたのでちょうどこのままジャストサイズのベンチの上で僕はゆるゆると眠りに落ちた。













あの崖の上の家がほんとうに好きでねえ。という気持ちで書きました。