「いただきます!」 トリコさんが大きなパウンドケーキを口に押し込んだ。僕はそれを横目で見ながら、ぼんやりと椅子に座っている。 「これうめーな、小松!もうないのか?」 口元についたケーキ屑をぺろりと舐めあげてトリコさんはうなった。 「もうそれでおしまいだよ。お前、さっき食糧庫を空にしたとこじゃないか。――いい加減に小松君の分くらい置いておけ」 ココさんがすっかり冷めきったお茶の代わりを運んできてくれた。ふわふわと湯気の立つカップを前に僕はただ座ったままだ。 僕の分のケーキをつまもうとしたトリコさんに注意して、ココさんも席に座る。なにごとも起こらなかったみたいにいつものように時間が過ぎていく。 ケーキの焼けるにおいにつられて起きてきたトリコさんが僕らを見つけて、腹が減ったとわめいたのでココさんは僕を離し、お茶の用意をしてくれたのだ。 僕はというと、なんだか魂が抜けたみたいになって、ココさんに椅子に座らせてもらったあとはじっとしている。ココさんいわく、ようすがおかしかったから鎮静剤を飲ませたらしい。 薬が効いたみたいでよかった、と笑ったココさんはもういつものココさんに戻っていて、僕はホッとしたのと変なことをしてしまったなあという気恥かしさで顔があげられない。 「――ちぇ」 トリコさんは口をとがらせて、けれど思い直したように席に座りなおした。 「でさ、なんでココ、小松にキスしてたんだ?」 「……」 し、んと部屋の空気が凍りついた。僕のせいじゃない。 ココさんが怒った顔をしてトリコさんを睨みつけているのだ。一触即発。 「おいおい、怒るこたないだろうが。――純粋に質問してるだけだろう?俺だって別に下世話なこと思ってるわけじゃねえ。コンビの相方が床に伸びてて、他の男にのしかかってられちゃあ気になるのが人情ってもんだ」 いや、違うんですよ。トリコさん。 僕は弁解する気力も起きずに、胸の内でつぶやいた。確かに見た目はあなたの言った通りなんですけど、全然誤解で、それは―― (――キス?) 僕の中にひとつの疑問が渦巻いた。 「……」 ココさんの怒りの波動は大きい。空気がびりびりと触れれば雷が落ちそうな緊張の中、トリコさんはゆうゆうとお茶をすすっている。 「さっき説明しただろ?小松君の体に何か毒が残ってないか調べてたんだよ。ちょっとようすがおかしかったし……ハントの時、食材みつけたら人の制止を聞かないで行ってしまう人だろう?ほんとうはお前の役目だぞ」 憤懣やるかたないといったようすでココさんは言った。 「けどよ、今日のハントはそんなきつい相手でもなかったし、小松もたぶん変なもん食ったりはしてなかったと思うんだけど……まあ、ありがとよ!ココ。寝起きに野郎同士のキスシーンなんか見るとは思ってなかったから、聞いてみただけだ。あんまり気にすんな」 「キ。キスとか言うな!」 「あんなもん、キスシーン以外のなにものでもあるかよ。ほら、見てみろ。小松なんかココの超絶テクニックで昇天しちまってるぜ」 (――え?) トリコさんに肘でつつかれて、僕ははっともの思いから覚めた。 「えええええええええええええええええええええええええええええ!!!!」 「ちょ、小松うるせえ……」 トリコさんが耳を押さえて机に突っ伏し、ココさんは嫌そうに僕を見ている。 「相変わらず、品がない――まあ、元気になったみたいでよかったけど」 「いやいやいやいや、えええええええええええええ!!!」 僕の口から出たのは、驚愕の叫びだけだった。 (キスって、キスって。僕、女の人ともしたことないのに?いや、でもあれはココさんが僕を思ってしてくれたことで――でもでも、もとはといえば僕が悪いんだけど。けどそんなふうに毒を診るなんか知らなかったし) 「ええええええええええええええええええええええええええええええ!!!!」 僕の叫びに、何かを察したのかトリコさんが大きく笑いだした。そうだ、この人は鈍いくせに妙なことは鋭くて、僕は何度も驚かされたことがある。 「おい小松!お前、もしかしてあれがファーストキスだったのかよ」 「トリコ!」 「そ、そ。そうですよ!トリコさん。ココさん僕に鎮静剤飲ませてくれただけって言ってて、そんなこと言うの失礼すぎますよ」 にやり、とトリコさんは極上の笑顔で僕を見た。僕はごくり、と息をのんだ。こういう顔をするときのトリコさんは邪悪だ。短いコンビ生活の中で僕がトリコさんから学んだ数多くのことの一つ。 「じゃあよ、小松」 トリコさんは葉巻樹を取り出してパチリ、と指を鳴らして火をつけた。大きく吸い込んで、その分大きく煙を吐く。ちょっとした蒸気機関車みたいに見える。 「その鎮静剤っての、どっから飲ませてもらったんだ?」 「……」 僕は答えを求めてココさんを見た。 「それは――口からに来まってるだろう?火傷も気になってたからその分も入れて……あの時は毒がまわってるんじゃないかって……心配だったから」 答えるうちにココさんの顔がみるみる赤く染まっていった。それを疑問に思いながら、僕はトリコさんを見た。ニヤニヤ笑いはおさまるどころか、センチュリースープ並みに大きくなっている。 「だからな、小松」 要領を得ていない僕をみるに見かねてか、トリコさんが葉巻樹の煙を大きく吐き出した。ぽんぽんと大きな手のひらが僕の頭をなでる。 「ココの口からお前の口へ直接飲ませたってことだ。おい、分かるか?――これをキスって言わなきゃなにをキスって呼ぶんだよ。おお、今日はめでたい日だな。ココ、いい酒置いて……」 トリコさんがココさんを振りむいて、ぎょっとしたのを僕は見た。 「おいおい、お前ら……どっちも初めてだったのかよ」 トリコさんの呆れたようなつぶやきの先に、熟れたダイヤモンドイチジクリスタルの顔色をしたココさんがいたのだ。 「もうこりゃ、祝うしかねえな!おい、小松、ココ。グルメタウンへ帰って祝賀会だ」 「しゅ、祝賀会って……」 弱々しく僕はトリコさんに聞いた。ココさんは何も言わず黙って座ったままだ。 「バカ野郎、決まってんじゃねえか。お前とココのファーストキス記念日だよ」 今度こそ、僕は腰を抜かして椅子から落ちた。 |