深夜の暗い道をとぼとぼと歩く。
明日は休みだが、その分いろんな準備に追われこんな時間になってしまった。見上げれば真っ暗な空にひときわ輝く月が夜空を明るく照らしている。昨日から続く大風が空気を澄ませているから、とてもきれいだ。空気もだいぶ冷たくなってきた。そろそろ外套を出さなければ。
息を吐いても、まだ白くはならず。なんとなく手をこすり合わせながら家路を急ぐ。こんな日は少し物悲しい。冷たく暗い部屋を思い出すと、くたびれた体がいっそう重くなる。ユンはいまIGOに預かってもらっているから暖かい出迎えもないのだ。思わず長いため息を吐いた。
(――侘しい)
大したことはないのだが、身を蝕んでいく感触がボクの感じやすい目に涙を浮かばせた。もう、そぞろ歩きはやめようよ、月の光に照らされて。ずん、と鼻をすすって大きく息をついた。うだうだ考えるのはよそう。冬はどうしても心さみしくなる。
カバンを持ち直して、背を張って歩幅を広げた。早く寝てしまおう。朝が来れば、こんなことを考えなくても済むのだ。口を引き結んで早足で急ぐボクに風が吹きつけてきた。飛ばされてしまいそうだ。思わず身を縮めると、聞き覚えのある鳴き声が高らかに響き渡った。
濁ったような呼びかけるような。ボクはそれを知っている。
「キッス!」
見上げると、月明かりがくっきりと大きな鳥の形に切り取られていた。
「キッス!」
もう一度呼ぶと、嬉しそうな鳴き声が上がる。理解しているのだ。ボクはあたりを素早く見回した。
もう時刻は明日に差し掛かっている。人通りが途絶えた街角にキッスが降り立っても、騒がれる恐れはないだろう。それでも少しだけ移動して、わずかに空間のある場所にボクは走った。キッスは滑空したあと、ボクのそばに音もなく降り立った。冷たい空気の匂いがする。
「どうしたの、こんな所まで飛んできたのかい?」
背中にあの人が乗っていないのをいぶかしんでボクは尋ねた。答えが帰ってくるわけがないことは分かっていたけれど、聞かずにはおられなかったのだ。
「キッスだけかあ」
ごわごわした羽根の胴周りにユンによくそうするようにしがみついた。
暖かいキッスの体。ユンのそれよりも強い鼓動。
「小松くん」
ぬくぬくとキッスの羽根に温まっていたボクにそう呼びかける人がいて、飛び上って驚いた。キッスを思わずまじまじと見てしまう。まさか、しゃべったわけじゃないよね。いくら賢くても人語を発する機能はくちばしにはついていないはずだ。
「妬けるね。キッスにはそうやって簡単に飛びついてしまうんだから」
暗闇に目を凝らすと、徐々に人影が近付いているのが見えた。月明かりに照らされる秀麗なおもざし。それ自体が光り輝いて見える美しい顔が優しく笑っている。怖くなってボクはますますキッスにしがみついた。
「やあ、小松くん。君を迎えに来たよ」
「……」
ボクは答えるすべを失っていた。分厚いマントをはおったココさんがボクに向かって手を伸ばしている。バカみたいにココさんの顔を見つめていると、困ったように首をかしげてボクの前までやって来て膝をついた。
「月があんまりきれいだから、君に会いたくなった。迷惑かい?」
間近にあるココさんの顔。つるつるとした肌に長いまつげの影が落ちる。ボクは突き上げる衝動のままにココさんの頬に手を伸ばした。するん、とした感触とおよそ男性の肌に触っているとは思えないほどの滑らかさ。
ココさんは目を閉じてボクのやりたいようにさせてくれるつもりらしい。思い切って両手で柔らかなもみあげを堪能したあと、釣り上ったまゆ毛を指で撫でた。つくりものじみた美しい顔を両手で挟んで眺めていると、何とも言えない気分になった。
ボクが黙っているのをいぶかしんだのか、ココさんの目がぱちりと開いた。長いまつげが震えたのが分かる。
「寒くない?」
「はい、こうやってると暖かいです」
「ならよかった」
ココさんの手が、顔にかかっているボクの手を握り締めてきた。武骨な、けれどしなやかな指先はグルメ細胞のたまものか、とても熱い。そうされただけでボクの手はすっかりぬくもってしまう。
「シャンパンをね、汲んで来たんだ。極上の天然モノの湧く泉を教えてもらえてね。せっかくだし、君と飲めたらいいなと思って」
トリコだとすぐ飲み干してしまうから。とココさんはおだやかに続けた。それを聞いてボクの胸は高鳴った。
天然のシャンパンの湧く泉!
美食屋にはお酒に強い人が多いから、きっとその泉も特別なものなのだろう。
「ケーキもあるし、節乃さんから頂いた料理もあるからボクの家に招待するよ」
「わあ!すごい!いったいどんな特別な日なんですか?」
「ノッキング次郎さんから泉の場所を聞いてね。そのおすそわけに節乃食堂を訪ねたら、タイミングが良かったみたいで」
「ココさんの普段の行いがいいからですねえ。でもよかった!ボク、明日お休みなんでココさんのご招待をお受けできますよ!」
「うん」
ココさんも嬉しそうに笑っていた。もしかして、占いで答えはすでに出ていたのかもしれない。けど、こうやって喜べるというのはいいことだと思う。
「――あ」
ぽつん、と冷たい雫がボクの額に落ちてきた。勘違いかなと思うくらい儚い感触。
「雨だね」
そう言って、ココさんはボクの手を握ったまま立ち上がった。まるで獲物を逃しはしないと決意している狩人のようだった。そんなことしなくても、逃げ出したりしないのにね。
「濡れるから、入っておいで」
いつもかぶっているマントの合わせを少し開いてココさんはボクを引きいれた。
「ココさんが濡れてしまいますよ?」
「ボクは慣れているし――それに、もうすぐ雪になるから」
遠くの空を見ながらココさんが言うのを、マントから顔だけを出してボクは聞いていた。
「さあ、行こうか――今日は素敵なクリスマスになりそうだ」
体が宙に浮かんだ、と思うとココさんがキッスに飛び乗った。掛け声もなく、阿吽の呼吸でキッスが大きな羽をはばたかせた。
クリスマス!あまりにも忙殺されるので、そんなイベントを自分が過ごすというのがすっかり抜け落ちてしまっていた。いつもより豪華なディナーと予約で埋まるテーブルをさばくのに必死で、その当日よりも落ちついた翌日の記憶が強いからだ。
(なんて素敵だろう)
イルミネーションが渦巻く繁華街を抜けて、普段なら息をひそめてやり過ごす寂寞を一人で味わうこともないのだ。
「ココさん、ボクを誘ってくださってありがとうございますね」
ボクは心から感謝の思いを込めて言った。
「こちらこそ、あまりたいしたおもてなしはできないけどね」
「とんでもないです!雪が降ったら、ホワイトクリスマスですね――世の中のカップルが喜びそうだなあ」
頼りなくそう言うと、くくく、とココさんがのどで笑っているのが伝わって来た。
「ボクの家に着くころにはもう雪になっていると思うよ。それに、ボクたちだって立派なカップルだよ。胸を張って行こう」
ココさんにしては珍しいジョークを言うものだから、ボクは思わず見上げてしまった。月の光に照らされて、ココさんの顔はもう人のそれではなくて彫像とか大理石でできた美術品のようだ。
「男同士っての抜きにしても、カップルって言うには釣り合いなさすぎますって」
「そんなことないさ、釣り合わないというならボクのほうだよ」
「いやいやいや、ボクですって」
「ボクが毒人間だから、君はそう言うんだね」
「こ、ココさん!?」
しんみりした口調に慌てると、ココさんの目がきらりと揺れた。面白がっている。もう、なんだなんだ。ココさんってこんな楽しい人だったっけ。
ボクはすっかり楽しくなって、ココさんと目を見かわすとぷっと吹き出した。
冷え通る闇夜をエンペラークロウの背に乗ったボクたちは悠々と通り過ぎ、やがて輝く月の中に小さな崖の上の家が出てくるだろう。
(聖なる夜に祝福を)
暖かいココさんの胸の間で、冷えたせいで痛くなった鼻をかばいながら、ボクは久しぶりに感じるクリスマスの醍醐味をうっとりと目を閉じて味わった。